毛沢東・蔡和森・向警予:三曽里の「大家族」
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 閘北公興路と香山路(今の臨山路)の交差点、三曽里 3 号 |
| 時間 | 1923 年 7 月—1924 年 6 月 |
| 性質 | 中共中央局機関(秘密の執務所) |
| 主な居住者 | 毛沢東(マオ・ズードン)、楊開慧(ヤン・カイフイ)夫妻;蔡和森(ツァイ・ホーセン)、向警予(シャン・ジンユー)夫妻;羅章龍(ルオ・ジャンロン)(陳独秀(チェン・ドゥーシュウ)に予備のベッド) |
| 隠れみの | 「関捐行」の看板を掲げ、対外的には「王姓の兄弟」一家と自称 |
| 結末 | 1932 年「一・二八」事変で日本軍の砲火に破壊される |
三曽里という場所そのもの(立地の論理、遺址の位置、記念館)については、 第三部・三曽里と湖州会館を参照。本篇が語るのはここに住んだ人々である。
とても「家庭的」な場面
まず一つの場面から始めよう。これは本篇で最も重要な一段である:
毛沢東、楊開慧夫妻、蔡和森、向警予一家、および羅章龍一家のあわせて十数人が三曽里に住み、 「大家族」が毎日一つ釜の飯を食べていた。
十数人、一棟の「二階二室」の石庫門、毎日仕事から帰ってきて一つ釜の飯を食べる。
そしてこの人々は、当時の中国共産党の最高層のメンバーであった。
| 人 | 当時の身分 | 住まい |
|---|---|---|
| 陳独秀 | 中共中央執行委員会委員長(後に総書記) | 予備のベッド |
| 毛沢東 | 中央局メンバー、中央局秘書 | 一階の前廂房 |
| 楊開慧 | 毛沢東の夫人 | 同住 |
| 蔡和森 | 中央局メンバー | 一階の後廂房 |
| 向警予 | 蔡和森の夫人、婦人運動の領袖 | 同住、戸主 |
| 羅章龍 | 中央局メンバー | 二階 |
| 王荷波(ワン・ホーボー) | 中央執行委員(家を借りた人) | よく来た |
彼らはどう「一家族」を演じたか
門牌:関捐行
表門には「関捐行」の看板が掛かっていた。
具体的には他人に代わって外国語の書類を記入し、税関に納税することを請け負う。
「関捐行」という営業内容は、とても「革命的」には見えない。だが、まさにこれが、この家に なぜ見知らぬ人が絶えず出入りし、なぜいつも外国語の書類があるのかを説明する——隠れみのの妙は、目立たないことにある。
姓氏:王姓の兄弟
三家族は「王姓の兄弟」と自称した。向警予が「戸主」である。
この三家族は異なる訛りで話し、対外的には「王家の兄弟」と呼んだ。
一人は湖南人、一人は湖南人、一人は湖南人——訛りは説明しやすい。 (毛沢東、蔡和森、向警予はみな湖南人であり、羅章龍は湖南瀏陽の人である。)
最も厳しい規律
これが三曽里の物語で最も胸を打つ部分である。
この一群の若い革命家は約束した: レストランに上がらない、芝居を見ない、映画を見ない、外で写真を撮らない、街をぶらぶらしない、など。
厳格に実行された例:
たとえば楊開慧の故郷から人が来ると、楊開慧は直接駅へ行き、汽車の切符を買って帰らせ、門にも入れなかった。
「門にも入れなかった」——この細部はとても硬い。
厳粛な規律により、この隠れた中央局機関は引っ越すまでついに露見しなかった。
彼らはなぜこの「五方雑居」の場所を選んだのか
三曽里を選んだのは、羅章龍が踏査して決めたものである。彼は『椿園載記』のなかで特別に一章を割いて回想している:
「我々がこの場所を執務の地にしようと決めたのは、ここが中国の地界に属し、 周囲に数十軒の製糸工場と若干の手工業工場があるからである。 住民は広東人が最も多く、次いで江北人である。 この場所は貧民区でもなく、紳士区でもなく、五方雑居で、環境条件は仕事にとってとても有利である。 だから決まった。」
「貧民区でもなく、紳士区でもない」——身を隠す場所の最良の生態的地位である。
さらに二つの地理的優位を加える(上海市政協サイトの記述による):
- 閘北には駅があり、交通が比較的よい;
- また租界に近く、万一何か問題が起きれば、租界のなかへ逃げるのが比較的便利である。
「五方雑居」は隠れみの、「北駅に密着+租界に隣接」は退路である。 これが隠蔽戦線の立地学である。
彼らは三曽里で何をしたか
三曽里は「住む場所」ではなく、中共中央局が執務する場所であった。
一、大量の中央文書を発した
中共中央局機関が三曽里 3 号にあった期間、発した中央通告と文書の数は多く、内容も広範に及んだ。 革命の力を壮大にし、第一次国共合作を指導するうえで重要な役割を果たした。
具体的な時期の範囲:1923 年 9 月から 1924 年上半期、三曽里から大量の中央通告と文書が発せられた。
二、国共合作を推し進めた
中央局機関が閘北三曽里へ移った後、上海の国共合作は急速に展開した。 三曽里にいた一年余りのあいだに、党中央の最高局の指導部は一連の、国共合作を推し進め、 党自身の建設を促進し、国民革命運動を強化するなどの方針を記した中央文書を制定した。
三、コードネーム「鐘英」
当時、機密と安全を考慮し、中共中央局の一般の書簡はコードネーム「鐘英」(「中央」の諧音)のみを署名し、 正式に発する文書は委員長と秘書が連署して初めて効力を持った。
「鐘英」=「中央」。 一つの諧音のコードネームは、長く使われた。
四、毎日十数種の新聞を読む
さらに毎日時間を割いて『申報』『新聞報』『密勒氏評論報』など十数種の新聞・雑誌を読み、全国の政治動向に注意を払った。
五、深夜までの会議
陳独秀、王荷波らがしばしば訪れ、みなが一緒に会議をし、討論し、文書を制定し、決議を起草し、しばしば深夜まで忙しく働いた。
毛沢東のここでのもう一つの仕事
三曽里で、毛沢東は中共中央局の秘書の仕事のほかに、もう一つの身分があった:
彼は一面で中共中央局の秘書の仕事をし、一面で国民党上海執行部の仕事も担っていた。 彼は国民党の名義で小沙渡(シャオシャドゥ)、楊樹浦(ヤンシュプー)、呉淞など労働者が集中する場所に平民学校、労働者夜学校を開設し、 積極的に労働運動を指導した。
楊開慧も上海に来た後、しばしば小沙渡の労働者夜学校へ行き、労働者に授業をした。
若い夫妻が、一人は中央局で執務し、一人は夜学校へ教えに行く。
1924 年 6 月:彼らは引っ越した
1924 年 6 月から 7 月のあいだに、毛沢東、楊開慧、蔡和森、向警予、および羅章龍が相次いで引っ越した。
毛沢東は仕事の必要から、租界の慕爾鳴路(ムーアルミンろ、現・茂名北路)甲秀里に転居した。
1923 年 7 月から 1924 年 6 月まで、三曽里 3 号はずっと中共中央局機関であった。
引っ越した理由は、主に国共合作の展開後に仕事の重心が変わったこと——毛、蔡らは相次いで国民党側の職務を担い、 仕事の場所により近づく必要があった。
この一家はその後どうなったか
三曽里の後、この「大家族」は各々散り、それぞれの運命は重いものであった:
| 人 | その後の道 |
|---|---|
| 毛沢東 | 中国革命を勝利まで導き、1949 年に中華人民共和国の主要な創建者となる |
| 楊開慧 | 1930 年に長沙で犠牲、わずか 29 歳 |
| 蔡和森 | 中国共産党初期の重要な指導者の一人、1931 年に広州で犠牲、わずか 36 歳 |
| 向警予 | 中国婦人運動の先駆者と領袖、1928 年に武漢で犠牲、わずか 33 歳 |
| 羅章龍 | 後年は長く教育と研究に従事 |
| 王荷波 | 1927 年に北京で犠牲 |
| 陳独秀 | 中共初期の主要な指導者、1942 年に病死 |
三曽里のあの十数人のうち、大多数は、自分たちがかつてそのために奮闘したあの国を見ることができなかった。
(向警予、蔡和森について、上海党史網『紅色信仰が上海を鋳る』シリーズ映像は、これを 10 人の英烈人物のなかに数えている。)
三曽里の最後
1932 年「一・二八」事変で、上海を侵した日本軍の砲火が三曽里を破壊した。
遺址は今の臨山路象山小区 202—204 号一帯にある。
今日、どう彼らを見るか
- 中共第三回大会後の中央局機関歴史記念館(静安区): 展示室には毛沢東、楊開慧夫妻の三曽里での寝室の場面が復元され、「上海大学」の場面もある;
- 遺址の位置:今の臨山路象山小区 202—204 号一帯(もとの建築はすでにない);
- 一本の動線:三曽里(公興路 × 臨山路)→ 湖州会館(会文路 155—163 号) → 上海大学旧址(青雲路青雲里)→ 宝山路事件記念点(宝山路 220—300 号)。
一句の結び
三曽里の物語で最も人を打つのは、「中央機関」という四字の格ではなく、 それがあまりにも普通の一家族のようだったことである:
十数人、一棟の石庫門、一つの「関捐行」の看板、一つ釜の飯 (閘北の日常の文脈では、これはおそらく「一つの竈」ということだろう)。
彼らは最も家庭的な方法で、最も家庭的でないことを成し遂げた。 そしてこの方法は、閘北のような場所でしか可能でなかった——五方雑居、駅に近く、租界に隣接し、 誰にもどこの馬の骨か分からない古い弄堂。
閘北で最も有名な一つの赤い遺址は、まさにそれが最も「遺址」らしくない姿をしている。
出典:三曽里の人物と生活の細部は、上海党史網『「三曽里」のハイライトの時刻』、 人民日報『早期中共中央指導機関の上海に於ける』、上海市政協サイト『石庫門のなかの赤い記憶(二)』、 上海党史網『中共中央機関の早期上海駐在の歴史空間に関する考察』、澎湃新聞『「四史」学習教育‖静安のここにある 9 つの重要場所』に拠る; 羅章龍の回想は『椿園載記』より引く。完全な書目は付録四を参照。